いつかどこかの世界
 『ワカヤマール物語』
    〜あした咲く花〜


いつかどこかの世界に、ワカヤマ−ルという国がありました。
ワカヤマ−ルは大国オオサカリアの隣にあり、これといった特徴のない国です。
けれど人の心はとてもおだやかで、
どこにもまけないことが一つだけあります。
それは国境地帯にほど近いロ−サイ山のふもとに
一人の魔女が住んでいることです。
「北の魔女アイコ−ディア」
人々は敬愛と親しみを込め、彼女のことをそう呼んでいます。


季節は早春。
一年中華やいだ雰囲気に包まれている魔女の家ですが、この季節はことのほか花に埋もれております。 
それはなぜかと申しますと、見習い魔女達がお使いの度に寄り道をして、うっとりと花を摘んで帰ってくるからです。
そんな可愛い道草をとがめるわけにもいかず、アイコ−デイアは少し困りながらもまるで弟子達と秘密を
分かち合うかのように、ひっそり見て見ぬ振りを続ける春でありました。

さて、そんなある日の昼下がり、リンゴの木がすこぶる上機嫌で枝を揺らす下に、
アイコ−デイアの姿がありました。
アイコ−デイアはリンゴの幹に寄り添うように背筋を伸ばし、とても優雅なたたずまいで座っておりました。
もうずいぶんとそうしているようですが、アイコ−ディアはただ優しい風がスカ−トの裾にじゃれつく様を
見ているだけのようでした。
『良い日和ですね、アイコ−ディア』
木漏れ日が偉大な魔女のおつむの上でキラキラと弾けます。
アイコ−ディアは美しく澄んだ目を閉じ、下草にそっと触れました。
「ええ、とても素敵な空気の色ですわ」
光に向けられたアイコ−ディアの輪郭を風がふんわりなぞると、まるでタンポポの綿帽子のように体が軽く
なったような気がします。
『今日は特別の日ですかな?』
サワサワサワ・・・とリンゴの木が枝を揺らします。
「いいえ、でも、私にとってはそうかもしれません」
『ほうほう、アイコ−ディアに特別ですか』
リンゴの枝は、不思議がるとも感心するとも付かぬ風情で、そう揺れました。
アイコ−ディアは唇の端を目に見えぬ角度だけ持ち上げると、
「そう、私にだって、です」と言いました。
『なるほど、それでそんな面もちをしておいでなのか』
「あら・・・」アイコ−ディアは少々驚いたようにクイッと顎を引きました。
『おお、別に気にする必要はありませんよ。 ただそうして好きな歌も歌わず風を見ておられるのは、
ずいぶんと久方ぶりの事ですからね』
いらえに少し間をおき、アイコ−ディアは、
「たしかにそうですわね」と、かえしました。
そしてふいに何かを吹っ切るように両手を伸ばします。
伸びをした仕草さえ、バレリ−ナのように美しいのは言うまでもありません。
そして自分でも風を起こすかのように、深い深い深呼吸を1つ。
「さあ・・・もう1がんばり」
アイコ−ディアが滑らかな仕草で草の上に立ち上がると、一部始終を見ていたリンゴの枝葉が、
大きく揺らぎました
『アイコ−ディアという名の魔女は、それはそれは多くの人々に愛されています。 
しかし、愛されることにあなたが責任をとる必要はありませんよ』
足を止めたアイコ−ディアが言います。
「でも、人はどんな思いにも責任をとりたくなるわ」
聞こえたのは溜め息だったのでしょうか・・・。
『たしかにそうです。 あれもこれも、あなたの小さな肩にはずいぶんと重荷でしょう。 
我々の種族では想像も付かないほど大変なことなのだと思います。 
私達がどんなに美しい花を付け、実を実らせても、人は選んで行くのです。 
でも、我々もそんな嗜好にあわせようなんて考えても居ません。 ただ咲き、ただ実らせるだけなのです』
アイコ−ディアは黙ってリンゴの木を振り仰ぎ、小さく頷きます。
『ねえアイコ−ディア、魔女もそうなのです。 魔女はあした咲く花、あす咲くために今日を生きている花、
だからなにものにも定まらない、とらわれない。 魔女は本来そういったものなのですよ』
その言葉を聞いたアイコ−ディアの瞳にふと、懐かしい色が浮かびました。
「それ、昔お師匠様に聞いたことがあるわ」
そういった偉大な魔女の顔には、微かな微笑みが刻まれておりました。
なにやら先ほどとは違い、晴れ晴れした様子にも見て取れます。
『気が向けばいつでもここに来てください。 年寄りの言うこともたまには聞くものです。
それに天気の良い日はことのほか上等の木陰が用意できますからね』
アイコ−ディアがニッコリ微笑むと、リンゴの木もサワサワと木々の擦れ合う音を立てます。
それは混ぎれもなく梢のふれあう音とですが、確かにリンゴの木の笑い声でもありました。
『あなたがいつまで美しいのは、きっとあした咲く花だからです』
「まあまあまあ、なんて素敵なほめ言葉かしら」
アイコ−ディアはリンゴの木を見上げ、それはそれはとびきりのお辞儀をいたしました。
いつもと同じ今日の中で、ほんの少し特別なアイコ−ディアを見送ったリンゴの木は、
いつもと同じ調子で、ゆったりと風に吹かれております。

 さてさて、いつもと同じ日に、自分だけが特別だったのは、何もアイコ−ディアだけではないでしょう。
特別を素敵な特別に変えられるかどうかは、明日を夢見る今のあなた次第。
あなたもあした咲く花をごらんになりたいのなら、
まずは一歩明日に踏み出すことをお勧めいたします。